昆布が我が国の文献に登場する最も古い例は、797年にできた『続日本紀』の中で、「霊亀元(715)年十月、蝦夷の酋長である須賀君古麻比留は朝廷に対して先祖以来、昆布を献上し続けていると報告した」とあり、今から時代を遡ること1280余年も前のことです。
延長5(927)年に完成された延喜式(平安時代中期の役人の実務規定)で、昆布は租税として指定され、朝廷が行なう仏事や神事に欠かせないものとして登場しています。
朝廷に貢納された昆布は、文武百官や神社・寺院へ支給され、神社では神饌として神に捧げられ、寺院では精進料理に用いられました。
今までの時代と異なり、仏教文化が人々の生活に深く影響を与えたこの時代。
それまであまり知られていなかった寺院の生活習慣が一般にまで広く取り入れられるようになり、特に寺院で食されていた精進料理が普及しました。精進料理に欠かせない昆布は寺院食から武家の食卓へも広がっていきました。
蝦夷と越前・若狭を結ぶ日本海航路により交易が活発になり、北で採れた昆布は京都へ運ばれ、都の食卓を飾りました。料理法の進歩に従い「昆布巻」など昆布を使った様々な料理も登場しました。また、戦乱も多いこの時代、武士達は「打ち勝ちて喜ぶ」ためにと昆布、あわび(打ちあわび)、勝ち栗を膳にのせ酒を酌み交わしました。
太平な世が続き、生活も贅沢になり、江戸文化の特質である「粋」と「通」が料理にも及び始めました。昆布はその代表的な茶会における「懐石」にも登場しており、宴席に欠かせないものであったようです。江戸の食べ物商は6160余軒にものぼり、「こぶやあげこぶ」と声をかけて揚げ昆布を売る物売りも市中を流して歩きました。また、西回り航路の開発によって昆布は「天下の台所」大坂に送られるようになり、元禄の頃には、とろろ昆布など加工昆布が盛んに製造され、それらを商う「あきんど」が活躍するようになりました。加工法の発達により、昆布は広く人々に愛され、その日常に浸透していきました。
江戸時代が終わり明治維新により世の中が大きく変革するとともに、昆布業は新政府の活発な産業保護政策のおかげもあって、これまでと比べると一層本格的な発達を遂げました。
産地である北海道の収穫量は着実に増加し、この頃すでに昆布は「浪速名物」としてゆるぎないものになっていました。
昭和16年太平洋戦争に突入し、昆布は統制品となり、栄養補助食品として、また貯蔵食品として重要な役目を担うこととなりました。統制化は、戦時下といえども、昆布を日常的に食べてきた大阪人と昆布業者にとっては痛恨の極みでした。戦後、統制は解除され、自由経済が到来し、大阪商人たちは相伝の加工技術を生かして、往年の声価を取り戻していきました。統制配給により昆布は全国で食べられるようになり、その後、大阪万国博や自然食品ブームにより、さらに重要を伸ばしていきました。
「水中の石上に生ずる草」をアイヌ語で「こむぶ」ということから「こんぶ」に転じたとする説です。
また、アイヌ語では昆布のことを「コンプ」「クンプ」「サシ」といい、これが「コンブ」になったとも言われています。
平安時代前期に源順により編纂された『倭名類聚鈔』の中で、19種の海藻類が紹介されています。海藻類は語尾に「モ」「モハ」「メ」「ノリ」がつけられ、昆布は「比呂米」(ひろめ)「衣比須米」(えびすめ)の万葉仮名があてられています。ヒロメは「広布」、エビスメは「夷布」と和製文字も工夫されており、「広布」が音読されて「コウフ」になり「コンブ」になった、あるいは蝦夷から胡(こ)の賦(ふ)(貢ぎものという意味)になり、「コフ」から「コンブ」になったと言われています。
中国には『爾雅』という紀元前820年頃の百科事典のような書物があり、この中に「綸布」(くわんぷ)という記述が見られるそうです。
昆布を産しない中国では、アイヌから昆布を買い入れていたと考えられるので、昆布に「綸布」という言葉を当て、時代を経ていくうちに「クワンプ」が訛って「コンブ」になり、その言葉が唐の書物を通じて逆に中国から日本に入ってきたと言われています